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<師友塾の名のいわれ>(大越俊夫著『幻の鯉のぼり』より抜粋)

すべてのことは幻から始まった。

 今からちょうど二十年前の三月、奈良二月堂のお水取りの行事が終わって間もない頃に、私は、生涯を決するある重大な用件を果たすために数人の青年と中型トラックに乗りこみ、早朝、京都から奈良へと向かった。朝の冷気は鏡池の表をうっすらと凍らせ、まだ人の影らしいものさえない東大寺境内の一角に、清水公照師の宿坊があった。

 私たちは宿坊の外門(がいもん)脇に車を止め、玄関先まで手土産を携え簡単な挨拶を済ませると、再びトラックに戻り、そのままおもむろに始動させた。荷台には、古いマットの上に大きな木の板が横長に立ててあった。それはまるで巨大なカマボコ板を思わせるもので、数本の頑丈なロープと分厚い座布団で固定され、さらに同乗した青年たちの手によって支えられていた。

 宿坊の玄関近くまで車を動かし、ロープを解き、その巨大板をトラックから下ろすと、そのまま担いで一気に書院まで運び入れた。板の表面などを点検しながら待機していると、「これはまた立派な板ですな」と張りのある低い声がした。

 それはどこか、インドの高貴な香が立ち籠めるような実に快い響きであった。私たちの眼は一斉にその声の方に向けられた。書院の中央に第二百七世東大寺管長清水公照師の姿があった。私たちは座り直し、改めて挨拶をした。

 この書院は外から見た感じよりも広く、お坊さまが住む部屋というよりはむしろ彫刻家や画家のアトリエといえるような、そんな創造的な匂いのする空間であった。

「ようこそ、ようこそ。さあ、どうぞこちらに」との言葉に、こわごわ近づいてみると、公照師は小さな泥仏(どろぼとけ)を手にし、あたかもその仏像に霊魂を注ぎこむかのように筆先で丹念に撫でていた。

 私たちが近づき正座すると、師はおもむろに仏像を棚に戻し、私たちと対座した。そのとき初めて気がついたのだが、師の背後の障子は広く開け放たれ、その向こうの手入れの行き届いた閑静な中庭には、辛夷(こぶし)や藪椿(やぶつばき)などの茶花(ちゃばな)が彩りを添えていた。早春の淡い日差しを背にした公照師の姿は、まるで良寛さまのように見えた。年の頃は六十代半ばだろうか。灰色の作務衣(さむえ)に身を包み、堂々として動かぬ風格があった。

「かなりの重さと見ましたが、よく運ばれた」

 師は微笑みながら言葉を続けた。

「あそこにバケツが二つあるでしょう」

 言われた方を見ると、隅に真黒い墨汁を満たした金属製のバケツが行儀よく並んでいる。

「花岡君の息子さんが、昨夜から泊り込みで磨(す)ってくれました」

 花岡君とは、仏典童話作家として高名な花岡大学先生のことであり、師の長年の知己として私を師に引き合わせてくれた大恩人である。その大恩人の子息が――といってもすでに四十を越した方なのだが――私たちのために墨汁を作ってくれていたなどとは、夢にも思わなかった。しかも、たった三文字のためにバケツ二杯分もの墨汁が要るというのだ。無知は罪なりである。公照師の何気ない言葉に、穴の中にでも入りたい気持であった。

「ところでオオゴシさん、あなたは越智翁のお孫さんなんですな」

公照師の思いもかけない突然の問いかけに、「あっ、はい」とへどもどしていると、

「そうですか。実に奇縁ですなあ。越智翁には長い間、東大寺奉賛会会長としてご尽力を願い、只今も大仏殿大修理補助金獲得のために大変お世話になっているところです」

 優しく親しみの籠った声であった。それにしても、義理の祖父が東大寺管長とそうした昵懇(じっこん)の間柄とは知らなかった。

「そうでしたか、そうでしたか」と公照師はますます親しみをこめて頷(うなず)いていた。ところが、私の方は師の心情とは裏腹に、当時抱え込んでいた事情のせいで複雑に揺れ動いていた。

 というのは、実は、その越智翁の孫娘である私の妻と年端のいかぬ三人の子供を奈良のマンションに残したまま、私自身は八ヶ月に及ぶ家出中の身であったからである。当然のことながら、このことは公照師とは何の関わりもなく、師はいきなり問答を吹っかけてきた。

「オオゴシさん、二つのことをお訊きしてもいいですかな。万一、うまく答えられなければ、看板を書くわけにはいかんでしょうな。アッハッハッハ」

 冗談とも本気ともつかぬ豪放磊落な笑い声を頭から浴びせられて、逆に私の肚は決まった。

 確かに、無知の罪も家出の罪も、どちらも私の身から出た錆ではある。しかし、今こうして生涯の大事業に乗り出そうとしているのも事実なのだ。何があっても、この巨大カマボコ板に<東大寺管長・清水公照筆>による<師友塾>の文字が書きこまれなければ、私の一大計画はその扉を開くことができない。

 私は公照師が禅の大家であり、そして禅の世界に<公案>なる問答があることも知ってはいた。が、今ここで、その<公案>なるリトマス試験紙でテストされるなどとは思いもよらなかった。

「師友塾のこの三文字名は、これはどなたが考案されたのですかな?」

「私です」

「あなたが…で、その名の謂(いわ)れを伺ってもよろしいかな?」

「はい。法華経二十五観音経の中に<二求(にぐ)の心>が記されています。私はこの<二求の心>を、人生においてよき師を求め、よき友を求める、と転意しました。これが師友の名の謂れであります」

「なるほど…それは教育の原点ということでありますな」

 公照師は自問するかのようにそう言いながら、大きく頷いた。どうやら第一関門はパスしたようだ。生唾を飲みこんで、続く第二問を待った。

「オオゴシさん、東大寺は何宗で何経を唱えているか、ご存知ですか?」

「はい、華厳経を教義の中心とする華厳宗です」

「ほほう、よく勉強されていますなあ」

 公照師は、今度は身を少しばかり乗り出すようにして、

「では華厳経の教えを、あなたなら一口で何と言いますかな?」と問うてきた。一瞬、私はウッと口ごもってしまったが、

「それは<一切一即、一即一切>だと思います」と答えると、

「おお、その通り」と、公照師は両手をポンと打ち鳴らした。そしてこれを機にと、<一即一切>の四文字についてひとしきり講釈し、大いに満足といったふうであった。あたりの空気はずいぶん打ち解けてきた。

「オオゴシさん、あなたは英語の専門家ということだから、この際ひとつ確かめておきたいことがありますが、<御陰様>というのをイングリッシュでは何と言っておりますか?」

 私はまたもや口ごもってしまった。正直なところ、この奇問にはたじろいだ。東洋の心の神髄を表わすようなこの<御陰様>という文句と英語の対応など、恥ずかしいことに今の今まで考えてみたこともなかったからだ。はたと考えこんでいると、思わぬ助け舟を出してくれた。

「<サンキュー>というのとは違うでしょう。どうですか?」

「はい。<サンキュー>はギブ・アンド・テイクで、欧米人の完全な合理主義的な考え方に基づいた思想から出てくる言葉ですから、東洋的なニュアンスをもつ<御陰様>とは微妙に違うと思います」

 辛うじてこう説明はしてみたものの、頭の中では必死に<御陰様>に当て嵌まる語を探し求めていた。焦れば焦るほど混乱してしまう。私が窮しているのを察して、

「<御陰様>などという洒落た言葉は、英語には見当たらんでしょうが。いかがですかな? やはり、西洋は西洋、東洋は東洋ですな。アッハッハッハ」と豪快に笑った。

「窮すれば通ず」ではないが、どうやらこの奇問は、答えのないのが答えであったようだ。こんなわけで、私は結果的に答えずして答えてしまったのである。「ノー、アンサー、イズ、ベスト、アンサー」とは、公照師に一本取られてしまった。

 どうやらこの公案も無事に切り抜け、まさに御陰様の心で安堵していると、

「まことに、御陰様の心が世界一の心でございますなあ」とぴしゃりと締めくくった。そしてやにわに立ち上がり、仁王立ちになったその顔つきには気迫が漲(みなぎ)っていた。

「さあ、それでは書かせていただきましょうか」

 このひと声で、アトリエの空気は一変した。

 これまでただ大きいだけだったカマボコ板が、公照師の筆によって<師友塾>の顔に変身するのである。そのことはまた、<師友塾>の誕生をも意味することであった。

 公照師が両腕を捲り上げ足場を確かめている間、私たちは二つのバケツを近くまで運び入れ、再び巨大カマボコ板を担いで師の足元まで移動させた。公照師は口を固くへの字に結び、二つのバケツの位置を見定めたあと、足元の巨大板を凝視していた。その何かを射るような眼に、私たちは身のすくむ思いで息を殺していた。十秒、二十秒、否、一分を超えていたかも知れない。

「うーむ」と公照師が唸った次の瞬間、その白い足袋のつま先に力が入った。そしていきなり木板の右角を掴むと一気に腰まで持ち上げ、左角を梃子(てこ)にしてあっという間に左右に半回転させてしまった。この曲芸まがいの妙技に唖然としている私たちの驚きをよそに、「これでいいでしょう」と独り言すると、さっと奥の間に姿を消してしまった。

 やがてふたたび現れた公照師の両手には、これまで眼にしたこともないような巨大な筆がのっていた。それは、穂の根元が直径二十センチは超えていると思えるほどの代物であった。

 公照師は、何の躊躇(ためらい)もなく筆をバケツの中に浸すと、穂先にたっぷりと墨汁を含ませた。次の瞬間、その黒々とした巨大な穂先は、巨大板の上を蝶の如く舞っていた。二度、三度と舞い終えると、公照師入魂の<師友塾>の三文字がそこにあった。そしてその三文字は、私の心の中にも新しい生命として燃え始めていた。

 師友塾―それは、長い間得体の知れない幻であった。その幻が手で触れられる形となってこの地上に現われるには、三十年の歳月と、実に個人的な三つの脱出行を要したのである。思いの内の小さな幻は、脱出という苦行を糧(かて)にゆっくりと成長し、孵化していった。私にとって、師友塾誕生の背後にあるこの三つの脱出は、どうにも避けられないものだったのである。

(さらに詳しくは、『師友塾物語 幻の鯉のぼり』(白揚社)をご覧下さい。)