浪人とは、高校生活と大学生活の間に存在する中間的存在である。
浪人とは、大学とは何か、学問とは何か、自分にとって生涯とは何かを、
真剣に 思索する大切な時期なのであり、
誰もが一度は体験すべき人生の吊橋なのである。
(『青春革命』大越俊夫著より)

「<御蔭様>にあたる英語があるのでしょうか?」…

二十一世紀はどんな時代になるでしょうか? 残念ながら、今のままでは、この国にはあまり希望が持てそうにありません。エリートと目される指導者層の近年のモラルの崩壊には、目を覆うばかりです。つきつめれば自分のことしか考えていない人たちが先頭に立った戦後五十有余年でした。戦後の教育も、いわば自己中心主義の大量 生産だったのではないでしょうか。

欧米追随の結果 としての経済大国化、右肩上がりの繁栄の影で、肝心の魂の教育は抜け落ちてしまい、若者は日本という国に誇りを持てなくなっています。日本民族は本来、十分世界に誇れるものを持っているのに、それに気づかせる教育はなされてこなかったのです。

ある仏教の高僧が尋ねました。「〈御蔭様〉にあたる英語があるのでしょうか?」

これからの教育は、既存の社会にただ有利に順応するのではなく、上述の似非エリートより、真のエリート、精神性の高いエリートを育てることを目指さなければならないと思います。日本の心、伝統を取り戻し、たとえば忠誠心や義理人情、御蔭様といった心がわかり、かつノーブレス・オブリージュ(優者の責任)の精神を有した日本人を育てることこそ、二十一世紀に求められる教育だと考えます。

リンゴはリンゴ、バナナはバナナ

教育はひとつの手段です。よって、そこには目指す目的・目標がなければなりません。しかし、その目的が低次元では、いくら教育方法が優れていても望ましい人材は育ちません。その意味で、私たちは、古い時代の自己中心主義的なエリート像ではなく、新しく「公」の精神を有した人材を育てるという明確な目的・目標を掲げたいと思います。

二十一世紀は、自国の輪郭、存在価値をはっきり知り、同時に、世界を視野に入れることのできる若者の活躍に託されています。

一人ひとりの人間も、一つひとつの国も、それぞれ固有の価値や伝統を持っています。たとえていえば、リンゴはリンゴ、バナナはバナナとして、互いに色や形、匂いや味をはっきり主張しながら、いっしょにくだものかごに入っているというイメージです。ミキサーに入れてこなごなに混ぜてしまったら、それぞれの価値の意味がなくなってしまいます。

お互いが自己主張をしながらもうまく共存し、くだものかご全体が美しく豊かに存在する――そんなイメージを念頭に、その理想を実現しうる人材を育てるのが、新しい時代の求める教育の姿だと思います。

最初は少数派であって当然…

しかし、こうした志を持った人材は、現状ではおそらく全体の中の数パーセントに満たないでしょう。従来の価値観では、これらの人材は、むしろ日のあたらない位 置にいたかもしれません。

しかし、多くの識者が指摘しているように、歴史はつねに少数の選ばれた人材の活躍によって動かされてきました。時代が大きく変わるとき、求められるのは従来の体制に問題意識を感じざるをえない人たちです。その数が少数であるのは、いわば当然のことでしょう。

大は国家から、小は企業や家庭まで、次代を担うのはこうしたいわば「ニューエリート」です。従来のように、受験技術に長け、体制や権威を利用して己れの利益追求をはからずもなしえてきた似非エリートでない、まさに「本来のエリート」です。

私たちが作るのは、こうした「ニューエリート」、「本来のエリート」を育成するための大学受験予備校です。

めざせ、ニューエリート!!

旧来のエリートコースの頂点が東大であれば、既存の予備校の目的は、端的にいって東大を筆頭にして有名大学に何人合格させるかでしょう。実はもう少しその先を視野に入れれば、多くの受験エリートたちは、知ってか知らずか、卒業後大企業に入るか役人になって、既存の国家の体制にうまく、かつなるべく上位 に入り込むことに血道をあげることになっていきます。やがて、より多くの収入と安定を得ることが第一とされるようになり、その結果 、大学は出世の手段と化し、自分さえよければよいという自己中心主義を大量生産することになってしまうのです。

本来、大学は純粋に学問をするところです。そして、学問の究極の目的は、先述したような人間の育成に寄与することにあるはずです。

生きることの何たるかを十分に踏まえて大学の門をたたく人間は、危険を冒してでもすべきことをし、より多くを他者に与えるという「公」の精神を有しています。私たちは、こうした自ら貢献する「ニューエリート」を一人でも多く育てることをまず第一義としたいと思います。